piano-treeの日記

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「騎士団長殺し」のトポロジー。物語に潜む2つの三面鏡

トポロジーとは数学の一種で、どのように連続変形しても保たれる図形的な性質に着目する幾何学だ。位相幾何学と訳される。切ったりくっつけたりはせず、曲げたり伸ばしたりを繰り返すことを連続変形という。ドーナツ型を曲げたり伸ばしたりした(切ったりくっつけたりはせずに)型は、元のドーナツ型とは似ても似つかないとしても、やはり例えば球とは本質的に異なり、ドーナツ型の図形的性質をどこかで保っている。その本質とは何か、を研究するのがトポロジーである。


 トポロジー的な視点で見て、「騎士団長殺し」には二つの、二重の対象関係がある。一つはこの物語自身と”The Great Gatsby”だ。1925年に発表されたScott Fitzgeraldの小説で、本邦では野崎孝による名訳が長く親しまれてきたが、2006年には村上もこの小説を翻訳している。素性の知れないビジネスで財をなし、曰くつきの過去をもつ大富豪のJay Gatsbyは、ニューヨークの高級住宅街、「イーストエッグ」の湾を挟んだ向かい側、「ウェストエッグ」に豪邸を構えている。彼はその邸宅で毎週のように盛大なパーティーを繰り広げる。パーティーには招待状もないので、毎回それこそ乱痴気騒ぎなのだが、それには訳がある。イーストエッグに住む人妻で、Gatsbyの昔の恋人であるDaisy Buchananが「偶然」パーティーを訪れ、彼女とドラマチックに再開することを待ち望んでいるのだ。


 そういう形での偶然の再会はついぞ叶わないが、その乱痴気騒ぎを通じて、彼は物語の語り手であり、Daisyの従兄弟、そしてすぐ隣に住む隣人であるNick Carrawayと出会う。GatsbyDaisyの従兄弟であると知らされたNickに近づき、友人同士の間柄になろうと試みる。得体の知れないGatsbyに対するNickの警戒感から、二人の間には常によそよそしさが漂うが、それでもGatsbyは時間をかけてNickとの親交を暖め、Daisyを自宅でのお茶に誘ってもうようお願いする。自分がそこに隣人として「偶然ふらっと立ち寄る」ためだ。そのようにして、GatsbyDaisyとの再会を果たす。


 この関係性は、「騎士団長殺し」における「私」と「免色」、そして「秋川まりえ」の関係性とトポロジー的に一致する。私の邸宅と丘を隔てた向かいにある免色の豪邸。絵画教室の教え子である秋川まりえは、私と「秘密の通路」を隔てた隣人関係にある。免色はその豪邸を、彼が自分の娘だと信じる秋川まりえを観察するために購入し、「私」を通じて偶然を装い秋川まりえに接近する。以下に引用する、「私」に秋川まりえの肖像画を依頼するときの免色は、Daisyを自宅に招いてもらうようお願いするときのGatsbyを強く想起させる。

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 「・・・しかし、私の言ったもう一つのお願いについてはいかがでしょう?覚えておられますか?」

 「うちのスタジオでぼくが秋川まりえをモデルにして絵を書いているときに、免色さんがふらりと訪ねてこられるということですかね」

 「そうです」

 私は少し考えてから言った。「それについてはとくに問題はないと思いますよ。あなたはぼくが懇意にしている、近所に住んでいる人で、日曜日の朝に散歩がてらふらりとうちにやってきた。そこでみんなで軽い世間話みたいなことをする。それはぜんぜん不自然な成り行きじゃないでしょう」

 免色はそれを聞いて少しほっとしたようだった。
 
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 二つの物語のトポロジー的な同質性は他にもあり、「私」の妻であるユズは建築士という男性的な仕事をしているが、Nickの恋人候補であるJordan Bakerはプロゴルファーでユズ同様にサバサバとした中性的な性格だ。絵の中の人物である騎士団長に相当するのは、自身のクリニックを広告する野立て看板に描かれた、眼科医T.J.Eckleburgの青い大きな眼。この大きな(Gigantic)青い眼は、それ自体が広告という経済的成功と商業主義の象徴でありながら、富と欲望に突き動かせるニューヨークの人々の行いを監視するようだ。異様で、人の注意を引かずにはおかない。


 The Great Gatsbyでは、そうして誰もが欲に突き動かされる中で、最後には結局一番純粋なロマンチストであるGatsbyだけが決定的な破滅を迎える。Daisyは、一度はGatsbyと恋仲に陥りながら、結局は夫のTomと子供達の元へと帰っていく。この小説のハイライトは、全てを失ってなお一途にDaisyを思い、信じ続けるGatsbyに対し、Nickが初めて賛辞を述べる以下のシーンだ。

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 We shook hands and I started away. Just before I reached the hedge I remembered something and turned around. 

“They're a rotten crowd . . . You're worth the whole damn bunch put together”.

I’ve always been glad I said that. It was the only compliment I ever gave him, because I disapproved him from beginning to end. 

 

ぼくらは握手をして、別れた。ちょうど庭の生垣についたところで、ふと思い立って振り返った。

「みんな腐ったような奴らだ。君はあいつらを全員寄せ集めたよりずっと価値がある」

思い出すたびいつも、それを言っておいてよかったと思う。ぼくが彼に送った唯一の賛辞だった。ぼくは彼を初めから終わりまで認めたことはなかったのだ。

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 この美しいシーンは以下の会話と呼応する。秋川まりえが行方不明になって、対策を講じるために「私」の家に立ち寄った免色が、秋川まりえの保護者である叔母との不倫を告白した後の「私」のセリフだ。

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  「免色さん」と私は言った。「どうしてそう思うのか自分でも説明はつかないのですが、ぼくはあなたは基本的に正直な人だと思っています」

 「ありがとう」と免色は言った。そしてほんの少しだけ微笑んだ。いかにも居心地の悪そうな微笑みだったが、全く嬉しくないというのでもなさそうだった。
 
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 このような類似性は、いくつかの文学作品同士に見られるが、一番近しい例はホメロスの「オデュッセイア」とJames Joyceの” Ulysses” だろう。タイトルからも解る通り、”Ulysses”はオデュッセイアを下敷きにした物語だが、表面上のストーリーは似ても似つかない。トロイ戦争の英雄である勇者オデュッセウスの、10年の歳月をかけた故郷イタケーへの帰還を描くオデュッセイアに対して、Ulyssesはさえない中年男性Leopold Bloomがダブリンの街を1日かけて徘徊する物語だ。しかし登場人物の相関関係など、両作品には「変形を繰り返してもなお保たれる同質性」、まさにトポロジー的な同質性がある。


 文芸批評の世界には、narrative structureという言葉がある。もともとは文化人類学のターミノロジーで、あらゆる神話に共通した物語の構造のようなものを示す。例えば、古事記の「因幡の白兎」の挿話は、世界中の神話に類似のストーリー展開が見られる。登場するのがワニだったりサメだったりという違いはあれど、基本的な舞台設定と物語の展開には共通の構造のようなものが見られるのだ。この「共通の構造」は、近現代の文芸作品にも意図的に取り入れられており、例えばShakespeareの作品のnarrative structureがwest side storyの脚本に応用されていたりする。
 

 しかし、「騎士団長殺し」や”Ulysses“に見る参照元との同質性はそれらとは次元が異なり、より複雑であると同時により本質に迫るものだと言える。表面的なストーリーのレベルでは、そうして本質に迫れば迫るほど、逆説的に全く相反して見えてくるのも興味深い。その意味では、「騎士団長殺し」は、”Ulysses”にすらおよぶ文学的高みに到達していると言えるのではないか。

 
 はじめに私は、この「騎士団長殺し」には、トポロジー的な視点で見て二つの、二重の対象関係があると言った。もう一つの対象関係は、絵画「騎士団長殺し」の中の寓意と、物語の中の史実の対象関係だ。これは、日本画家「雨田具彦」のウィーン滞在中の将校暗殺未遂事件を深掘りすることで作品中に明示されているが、正確に言うとここにはもう一つの対象関係がある。絵画の中の寓意と、オペラ「ドン・ジョバンニ」の構図との対象関係である。つまり、ここには3つのトポロジー的に同質な図形が重なっているのである。


 このことから導かれる帰結は?「騎士団長殺し」と”The Great Gatsby”との対象関係に、もう一つトポロジー的に同質な図形が重ねられることが予定されているのではないか。それはあるいは、村上の個人的なアジェンダなのかもしれないし、Joyceが”Ulysses”で試みたような、より大きなテーマと時代性がそこには隠されているのかもしれない。もし後者である場合、最後に突然登場した東日本大震災の話題がそのヒントになる。その意味では、それがヒントに留まっている限りにおいて、この物語はまだ完結していない。続きがある。