コンサル会社の広告界への参入」が日本で意味すること
「憲法」という言葉の誤訳から、意識高い系の横文字多様を擁護する
テレビで「憲法はなぜ必要か?」という特集をしていて非常に驚きました。憲法の重要性を解りやすく伝える、という制作者の趣旨は解るものの、ぱっと聞いた感じ非常に突飛な印象を受けます。憲法は国の設計図なので、憲法がなぜ必要か?というのは、国はなぜ必要か?という問いと同じです。護憲か改憲か、というレイアーの話ではなく、言葉の定義の問題です。例えば極端な話、たとえ無政府主義者であっても、国家を樹立した際にはそもそもその「政府は不要」という国のあり方が憲法に規定されるが故、憲法は尊重することになります。専制君主に絶対的な統治権があり、その統治権は全ての法律に優先する、というのも、近代的な立憲主義の精神には悖りますが、一つの国の設計図といえます。憲法は明文化されている場合とそうでない場合がありますが、憲法の数だけ国家がある、と考えることもできます。アメリカ合衆国は連邦国家(邦=国)なので、それぞれの州(stateというのは文脈によっては国とも訳します)が独自の憲法を持つ国家です。それゆえ、州によって同性婚が可能だったり不可能だったり、マリファナが合法だったり非合法だったりするのです。国の設計図である憲法が違うためです。
英語のConstitution(憲法)には、civil law(民法)とかcommercial law(商法)とかcriminal law(刑法)のようにlaw(法律)という言葉はついていないのに、それを明治時代に憲「法」と訳したのがそもそもの間違いの始まりです。この憲法という言葉自体は、聖徳太子の「十七条の憲法」を例に出せば解りやすいですが、本邦では古来から使われてきたものです。ただ、例えば日本書紀に出てくる憲法(いつくしきののり)という言葉は、本来は官吏が従うべき論理的な規範を定めたもので、役所の省内の決まり事のようなものであり、constitutionの本来の意味である「国家の設計図」ではまったくありません。官吏(公務員や国会議員)を縛る、という表面的な類似性こそありますが、概念としてはまったく別々のものです。例えて言うなれば、constitutionは家を建てるときに建築家が書いた設計図です。十七条の憲法などにいう「憲法(いつくしきののり)」は、「現場では必ずヘルメットを着用する」「タバコは所定の喫煙スペースで」などというルールに近いものです。ともに現場で作業をする大工たちを縛る決まり事ですが、本質はまったく異なります。
つまり、憲法という日本語は、当時の時点では誤訳です。言葉の意味・定義というのは生き物で、時代とともに一般的な用法・用例が変化するに従い変遷していくので、今日の「憲法」という言葉の辞書的な定義には、近代的な意味での憲法、国の設計図という概念も含まれています。しかし、辞書というのは、公文書から学術文書、市井の会話の記録を含め様々な資料をあたって用法用例を分析して編纂するものです。一般人が公文書上、学術文書上の用例を把握していることは少ないですし、この正しい定義で憲法という言葉を理解できている人は少ないのではないでしょうか。だからこそ冒頭の「憲法はなぜ必要なのか?」などというテレビ番組が成立し得るのです。多くの人は古来使われている「憲法」という言葉の意味など知る由もありませんが、それでもこの翻訳はやはり不適切です。「法」という言葉が入っていることで、ある種の法律なのだろう、法律の親分みたいなものだろう、という誤解を生んでしまいますし、「十七条の憲法」などという用例と区別できないのでそこでも誤解が助長されます。これらの誤解は、多少大げさに響きますが、立憲主義という現代的な国家のあり方に対する誤解にもつながっていると考えます。
明治維新を幕開けに外国文化が大量に流れ込んできた際、明治の知識人たちは、いくつもの「日本語にはない」概念を苦心して翻訳してきました。この「概念(concept)」という言葉にしたってそうです。文化的な文脈を完全に訳出することはできないので、どんな言葉の翻訳も誤謬はつきものです。ただLost in translationで意味が抜け落ちてしまっていたり、「現存在と存在者」のようにそれだけでは全く意味不明であったりすればまだよいですが、間違った理解を助長するのであればそれは誤訳であり有害です。それならなお、憲法はそのまま、コンスティテューションとカタカナで言っておけばよかったのではないでしょうか。私自身、かつて若い方に「それはマーケティグとITをグロスした視点ですね」と発言を要約いただいた際非常に狼狽したクチではありますが、うまく訳出できない場合は横文字をそのまま使う、というスタンスは上記の理由から支持します。
「邪魔」と「妨害」
「イマジン」の7年前、アメリカにはまだ白人専用バスがあった
「縁起かつぎ」は理にかなっている、という般若心境の教え。
私が仏教に興味を持つようになったのは、二十代前半の頃に奈良の薬師寺を観光で訪れたことがきっかけでした。当時の私は西洋文化に傾倒しており、好きな画家の故郷を訪ねベルギー辺境の港町を訪れたり、有名な建築物を見るためにスペインの紛争地に赴いたりしていたくらいなのですが、日本の建築や美術は歴史の授業で学ぶような退屈なもの、見ようと思えばいつでも見られるあまり価値の高くないもの、と誤解して考えていました。なので、その時薬師寺を訪れ、一年のうち限られた期間しか公開されない平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」を見るに至ったのはまったくの偶然、今考えると僥倖でした。
「空気を読む人」が海外で評価されない、実はとても哲学的な理由
インターネットでは、面識のない個人や、違う場の空気をもつコミュニティが人やグループの行動・言動に緩やかに、時に匿名で一方的に干渉できるので、職場や学校などといったリアルの世界と比べ「批判」が醸成されやすいのは我々の経験がよく知るところです。「インターネットはその匿名性ゆえに無責任な批判が跋扈する、なのでけしからん」といった議論はfacebookの実名制が普及した今でもよく目にしますが、その背後にはそもそも批判そのものが「けしからん」から、ないしは少なくとも原則するべきものではない(それゆえするなら何らかの責任を伴う)から、という前提が垣間見えます。もし批判が一般に歓迎されるべきものなのであれば、批判が集まりやすいインターネットはその意味で社会にとって有益だ、ということになりそうです。
終わるのはテレビ(テレビ広告)ではなくそもそもブランディングだ、という話
テレビがつまらなくなったと言われて久しいです。実際につまらなくなったかどうかは別として、私自身事実ほとんどテレビを見なくなったし、テレビの視聴者は2015年までの過去15年で800万人程度減っていると言われています。広告費を原資に面白いコンテンツを作って人を集め、更なる広告主を募ってそれをまたコンテンツ制作の原資に回す、というテレビのビジネスモデルは早晩終焉を迎えるのでしょうか。
これには二つの見方があって、一つはそれを肯い、インターネット広告とインターネットメディアが近い将来それに取って変わるのは自明の理だと考えるもの。もう一つは、そういう大きな流れは認めるものの、リーチの広さやメッセージの伝達性でインターネットがテレビに追いつくのはまだまだ先のことで、そうなったとしてもテレビの役割は依然ネット同様重要であり続ける、というものです。結論を急げば、私はどちらの意見にも与しません。
日本におけるテレビ広告の市場というのは、2000年〜2001年頃をピークとして毎年5〜10%づつ縮小を続けましたが、2009年に底を打ち、それ以降は実は毎年微増、つまりむしろ成長しています。インターネット広告が本格的な成長軌道に乗るのも、テレビ広告が底を打ったのと同じ2000年〜2001年頃で、つまりネット広告はテレビ広告の領域を食いつぶして成長しているわけでは必ずしもないのです。単純に数字だけ見れば、ともに成長している、ともとれます。
そして、本邦においてはテレビCM市場はいまだインターネット広告市場の3倍以上の規模を誇ります。インターネット広告がテレビ広告を市場規模で追い抜くのはまだまだ先のこと、このままのペースでは10年近くかかる見込みです。その意味では、データから見れば、まだまだテレビは終わらない、という見方に歩があります。アメリカにおいてはネット広告はもう既にテレビ広告(ネットワーク&ケーブルの合計)の市場規模に肉薄しており、イギリスではすでにネットがテレビを追い越しましたが、いずれもテレビ広告の市場は下げ止まりを見せ、リーマンショックの落ち込みからの反動もあり成長軌道にある点では共通しています。たとえばアメリカでは、広告だけでみてもケーブルテレビの市場規模がネットワークと同程度あり、ケーブルテレビ自体はサブスクリプション(月額制)だったりペイパービュー(都度課金)だったり複数のレベニューソースがあるので、そもそも同じテレビといっても国をまたげば単純比較はできませんが。
それでもインターネットが早晩テレビを凌駕する、という見方が根強いのは、インターネット広告の圧倒的な先進性がテレビ広告を時代遅れに見せるためです。テレビ広告では広告の効果を調べるには市場調査によるほかないですが、インターネット広告では購買までをトラッキングできることも多く、さらには複数の広告がある場合、ある広告の間接的なアシスト効果まで定量化できます。テレビ広告では「若い男性」くらいの粒度でしか対象をターゲティングできませんが、インターネットでは「競合メーカーのディーラーを訪問した人と、その人たちと似たサイト閲覧行動を持っている人」というくらいまで細かくターゲティングできます。最先端の全自動洗濯機が10万で買える時代に誰が1,000万で洗濯板を買うでしょうか?という話です。
そして事実、冒頭で述べたようにテレビの視聴者は減りインターネット利用の時間シェアはモバイル中心に爆発的に増えています。それなら本当に、いったい誰がテレビ広告なんて買うのか、とマーケターでなくても思われるでしょう。そんななかで、先に述べたように我が国においてテレビ広告は依然インターネット広告の3倍以上の市場規模なのです。そして同じく上で述べたように、しばらくその関係は逆転しそうにありません。なぜこのようなことが起こっているのでしょうか。
欧米、特にアメリカに比べ広告主側のマーケターや広告代理店がデジタルを理解していないから。人的投資、システム投資など広告代理店のデジタル対応が大幅に遅れているから。というのが、インターネット広告擁護陣営の論調です。マーケティングにおけるアメリカのトレンドは、タイムマシーン的に2〜3年遅れで日本に入ってくるので、日本でもアメリカで進んでいるようなデジタル化の大きな波が早晩やってくる。それまでの時間の問題だ、というわけです。しかし、欧米でもテレビ広告への投資は下げ止まり、むしろインターネット広告とともに成長しています。すべての広告がインターネット広告に置き換わる、などということは数年単位では到底起こりそうにありません。なので、マーケターや代理店におけるデジタル化の遅れ、というのは問題の本質ではありません。
私はインターネット企業でサービス開発をしていたこともあり、インターネットを理解した企業側のマーケターだと思いますが、それでもマーケティングのデジタル化というのはなかなか思う通りには進みません。一番の原因は、はっきり言ってしまうと、テレビ広告が依然効果的なわけではなく、実はインターネット広告「も」あまり効果的ではないためなのです。少なくとも、物凄く効果があったケースとテレビにおける平均的な効果を比較しても、そこには最新型洗濯機と洗濯板ほどの差はありません。最近やっぱりテレビってだめだけど、(期待していろいろ試した)ネットも変わらないよね、というのが実は多くの広告主の本音なのではないでしょうか。
ダイレクトレスポンスと呼ばれる、ECなどで購買を促進する広告は、インターネット広告はうまくやればかなり効果がありますが、商品の認知や想起を創るブランディングとと呼ばれる領域、企業の広告販促費の大半を占めるこちらのエリアでは、ネット広告の効果は、よく言ってテレビ広告と大差はないです。繰り返しますが、決してテレビがよい訳ではありません。テレビもダメならネットもだめ、という状況です。ターゲティングをどれだけ科学的に精緻にしても、結局それだけでは人の心は動かせないのです。これは、同僚の話を聞くとアメリカでもイギリスでもそうだと実感しますし、今後どれだけテクノロジーが進んでも変わらないと思います。
こういうとコピーライターやクリエイティブディレクターなど、広告代理店のクリエイティブの人たちは大喜びしますが、だからといってクリエイティブが大事、ということを言いたいわけではありません。ただ単に、感動・爆笑・驚きなどとても大雑把に、かつ一時的に心を動かす(そしてアワードで賞を取る)ことだけを目的として、ブランドの課題を何ら解決しない広告クリエイティブが跋扈しているのは悪しき風潮です。「あるブランドを、洗練され創造的でありながら人に寄り添った人間味のあるブランドだと感じ、それを記憶に書き込み、商品が必要になったときに助成なしに想起してもらう」など、マーケターが必要とする心の動きは至極複雑です。そもそもそんな心の動きを人工的に作り出すことが可能なのでしょうか。
それはとてもとても困難で、絶望的なまでの時間と体験の集積が必要とされる問題です。ブランドの課題が単純な認知(しってるかしらないか)の問題だったり、知名度・安心感の問題に留まっていた数十年前までは、広告によるブランディングなどということも可能だったのかもしれません。しかし今や、ネット広告であれテレビ広告であれ、いかなる広告も高度に複雑化したブランディングの課題を解決できません。だからこそテレビ広告もきかなければ、ネット広告も同様にきかないのです。しかし、利益の〇〇%と慣例的に設定されているマーケティング予算を消化して自分の仕事を守るべく、マーケターは日々テレビにインターネットに広告予算を配分し続けるのです。テレビ広告への投資がどこの国でも一定のレベルで下げ止まるのはそういう訳です。どちらにせよ効果がないのであれば、そして他に選択肢がないのであれば、テレビにも一定程度予算の配分は続けるでしょう。つまり、テレビやネット云々ではなく、広告によるブランディングそのものが終焉しているのです。
そもそもブランディングというのは広告だけの話ではまったくなく、商品コンセプトやパッケージ、価格、販売チャネルを始めとしたいわゆるマーケティングの4P全てを総動員するべき活動ですが、そこ(マーケティング活動全体)にすら留まりません。対従業員のブランディング(インターナルブランディング)を通じて、すべてのステークホルダーの(顧客だけではなく)タッチポイントにおけるブランド体験を集積していく、という文脈においては人事や営業、IRの領域でもあり、そこで作られたブランド価値を資産ととらえるなら財務の話でもありえます。そうして創られたホリスティックでマッシブな体験の集積があってはじめて、人の心は動き書き換えられます。
このような意味でブランドを構築するには、つまりあらゆるタッチポイントで共通したブランド体験をものすごい量集積していくには、なかば強権的にすべての企業活動を統制する強烈なカリスマ的リーダーシップが必要です。アップル、アマゾン、テスラなど、今世紀になって強固なブランドを築いた企業の裏にはこの強烈なリーダーシップが共通しています。もう一つの方法は、消費者や従業員自らにブランド価値を共創・構築してもらうやり方です。レゴやグーグルが大きな例ですが、ここには小さな成功例がいくつもあるはずです。いずれにせよ、それらはもやは伝統的な意味における、広告マンの言うところのブランディングではありません。企業経営そのものです。その意味で、ブランディングの時代は終わった。終わったのはテレビではなく広告におけるブランディングそのものなのです。そんななかでマーケターの役割は何なのか?ということは、とても大きなテーマなので次のエントリーに譲ります。