piano-treeの日記

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「空気を読む人」が海外で評価されない、実はとても哲学的な理由

インターネットでは、面識のない個人や、違う場の空気をもつコミュニティが人やグループの行動・言動に緩やかに、時に匿名で一方的に干渉できるので、職場や学校などといったリアルの世界と比べ「批判」が醸成されやすいのは我々の経験がよく知るところです。「インターネットはその匿名性ゆえに無責任な批判が跋扈する、なのでけしからん」といった議論はfacebookの実名制が普及した今でもよく目にしますが、その背後にはそもそも批判そのものが「けしからん」から、ないしは少なくとも原則するべきものではない(それゆえするなら何らかの責任を伴う)から、という前提が垣間見えます。もし批判が一般に歓迎されるべきものなのであれば、批判が集まりやすいインターネットはその意味で社会にとって有益だ、ということになりそうです。

 
 
少し前に、僧侶の松山大耕さんがTEDで日本人の宗教観を説いて話題になりました。曰く、日本人の宗教観は"believe in something"ではなく"respect for others"という寛容の精神に基づいており、同じ人が盆に仏を尊べばクリスマスを祝い、新年には神社に初詣する。この寛容さ故に、日本では過去に大きな宗教対立もなく、現在でも多様な宗教が社会に溶け込み、争うことなく同居している。これは誇るべきことで、今世界中から日本の宗教界が注目されている。というような話でした。
 
 
クリスマスもハロウィンも盆も正月も祝う日本人の宗教観は、過去には「節操がない」「信念がない」と否定的にとらえられることも多かったため、松山さんの説教はまさに目から鱗だった方も多いのではないかと思いますし、そのことが大きな反響につながりました。それ自体には私も共感するところがあるのですが、そんな社会の共感が「欧米もアラブ諸国ももっと"respect for others"で仲良く暮らせばいいのに」という論調に繋がることを危惧していました。詳細は後で述べますが、そこには大きな誤解があると考えるからです。しかしその後、実際にソーシャルメディアでそのような趣旨のコメントを多数見ましたし、宗教対立がニュースで取りざたされるたび、松山さんの説教は繰り返しSNSでシェアされるようになりました。
 
 
その文脈で宗教・文化対立に疑問を呈する人は、宗教対立を信念と信念の対立とみて、日本の宗教観と欧米・アラブの宗教観の対立を「他者に対する尊敬」と「信念を貫くこと」の対立とみています。信念を貫くことも立派だけど、他者に対する尊敬も同じくらい大事に思うことはできませんか?という投げかけです。整理すると以下の通りです。
 
<日本の宗教観
他者に対する尊敬 を最も重視
 
<欧米の宗教観
信念を持つこと・敬虔さ を最も重視
 
しかし、この日本における寛容さと対立する西洋の価値観は、実は信念を持つことや敬虔さではなく、ヘーゲル的な弁証法(Hegelian dialectic)に基づく歴史観なのです。丸山眞男の「日本の思想」に、著者が外国の学者から日本の知性の歴史(intellectual history)をまとめた書籍はないか、と問われ困惑するくだりがありますが、ここでいうintellectual historyを西洋ではフリードリッヒ・ヘーゲルがまとめて体系化し、後世の学者たちに引き継ぎました。統治の仕組み(constitution)や人権の考え方はじめ、科学や文化など社会を規定する知性・概念の発展はすべて「弁証法的に」行われてきた、とするものです。欧米社会の人は、もちろんそんなことは知りもしなければ意識もしませんが、日々この弁証法のなかで生きていると傍観者として彼らを見ると強く感じます。
 
このヘーゲル弁証法、名前は難しそうですがとてもシンプルな考え方です。テーゼ(考え方)Aがあり、それと対立するテーゼBが出てくる。AとBの対立はやがて止揚アウフヘーベン)され、その対立と止揚から新しい考え方Cが生まれる。ヘーゲルによれば、西洋の知的進化は常にこのように弁証法的な発展を遂げてきた、ということになります。ここで重要なのは批判の持つ意味です。反対意見に対する批判を自分の立場からだけ見れば、それはあるいは信念にも非寛容にも(ポジティブにもネガティヴにも)とらえられますが、一歩俯瞰した第三者的な立場から見れば、弁証法史観ではそれは新しい考えを導き人類を進歩させる正義(原則いいこと)になります。いうなれば、現在先進国で暮らす我々が享受している社会システムや科学技術はみな、例えば我々が切り傷を負っても破傷風で命をおとさずに生きていられること自体、批判によってもたらされた社会の弁証法的発展の賜物だというわけです。
 
 

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異なる宗教・文化が対立しているとき、そこには双方に、対立構造や批判しあう事に対する深い無意識のrespectがあるかもしれません。彼らが信念を主張する理性より高次の無意識において、対立構造が生み出す人類の進歩を志向しているのだとしたら、それは「自分と同様相手をrespectしましょうよ」と安易にたしなめられるべきではありません。整理すると、以下のようなことです。
 
<日本の価値観>
・他者に対する尊敬 を重視
 
<欧米の価値観>
・信念を持つこと・敬虔さ を重視
この対立を重視
・他者に対する尊敬 を重視
・◯◯を重視
・◯◯を重視
 
 
実際に欧米の文化では批判を大事にします。ビジネスのミーティングにおいても、彼らは意見の対立を歓迎し、賛意も批判も同等に飛び交う活発な意見交換を「建設的」と表現します。パブではビール片手に政治やスポーツを議論し、繋争があれば原告と被告に分かれ裁判で決着します。与党に野党、上院と下院、内閣と議会という議会制民主主義における二項対立の構造にも弁証法の影響が色濃いです。「空気を読む」というニュアンスが欧米人に伝わりにくいのは、ひとえにこの空気を読むという行為が、明確な対立構造が「ない」ことを前提としているためです。
 
 
なぜ、いわゆる「空気を読む」人を評価しないのか?と欧米人に聞くと、おそらく多くの人はなぜだろう、としばらく考え、「それは自分の意見を持っていないことを意味するからだ」というようなことを答えるでしょう。しかし、それと対立する、と日本人が考える「他人をrespectする」という美徳は当然欧米人にとっても重要な美徳です。他人をrespectしない人が敬遠されるのに、洋の東西が問われる由もありません。実際に、自分の意見ばかり主張し、他人への配慮を欠く人は世界中どこでも嫌われますし、会議の後には陰口を叩かれます。欧米人自身は、多くの場合そのことに無意識ながら、彼らが空気を読む人を評価しないのは、本質的には実はそれが弁証法的な批判精神を欠くからなのです。なぜって弁証法的な史観に立てば、批判と対立なしには人類の発展はストップしてしまうのですから。そういったものの見方がいい、といいたいわけでも、批判をよしとしない日本の文化を否定するものでもありませんが、グローバルな現場でビジネスをする際や国際ニュースを読み込む際などに、そういう考え方もあるのだ、と理解しておくことはとても有益です。
 

終わるのはテレビ(テレビ広告)ではなくそもそもブランディングだ、という話

テレビがつまらなくなったと言われて久しいです。実際につまらなくなったかどうかは別として、私自身事実ほとんどテレビを見なくなったし、テレビの視聴者は2015年までの過去15年で800万人程度減っていると言われています。広告費を原資に面白いコンテンツを作って人を集め、更なる広告主を募ってそれをまたコンテンツ制作の原資に回す、というテレビのビジネスモデルは早晩終焉を迎えるのでしょうか。

 

これには二つの見方があって、一つはそれを肯い、インターネット広告とインターネットメディアが近い将来それに取って変わるのは自明の理だと考えるもの。もう一つは、そういう大きな流れは認めるものの、リーチの広さやメッセージの伝達性でインターネットがテレビに追いつくのはまだまだ先のことで、そうなったとしてもテレビの役割は依然ネット同様重要であり続ける、というものです。結論を急げば、私はどちらの意見にも与しません。

 

日本におけるテレビ広告の市場というのは、2000年〜2001年頃をピークとして毎年5〜10%づつ縮小を続けましたが、2009年に底を打ち、それ以降は実は毎年微増、つまりむしろ成長しています。インターネット広告が本格的な成長軌道に乗るのも、テレビ広告が底を打ったのと同じ2000年〜2001年頃で、つまりネット広告はテレビ広告の領域を食いつぶして成長しているわけでは必ずしもないのです。単純に数字だけ見れば、ともに成長している、ともとれます。

 

そして、本邦においてはテレビCM市場はいまだインターネット広告市場の3倍以上の規模を誇ります。インターネット広告がテレビ広告を市場規模で追い抜くのはまだまだ先のこと、このままのペースでは10年近くかかる見込みです。その意味では、データから見れば、まだまだテレビは終わらない、という見方に歩があります。アメリカにおいてはネット広告はもう既にテレビ広告(ネットワーク&ケーブルの合計)の市場規模に肉薄しており、イギリスではすでにネットがテレビを追い越しましたが、いずれもテレビ広告の市場は下げ止まりを見せ、リーマンショックの落ち込みからの反動もあり成長軌道にある点では共通しています。たとえばアメリカでは、広告だけでみてもケーブルテレビの市場規模がネットワークと同程度あり、ケーブルテレビ自体はサブスクリプション(月額制)だったりペイパービュー(都度課金)だったり複数のレベニューソースがあるので、そもそも同じテレビといっても国をまたげば単純比較はできませんが。

 

それでもインターネットが早晩テレビを凌駕する、という見方が根強いのは、インターネット広告の圧倒的な先進性がテレビ広告を時代遅れに見せるためです。テレビ広告では広告の効果を調べるには市場調査によるほかないですが、インターネット広告では購買までをトラッキングできることも多く、さらには複数の広告がある場合、ある広告の間接的なアシスト効果まで定量化できます。テレビ広告では「若い男性」くらいの粒度でしか対象をターゲティングできませんが、インターネットでは「競合メーカーのディーラーを訪問した人と、その人たちと似たサイト閲覧行動を持っている人」というくらいまで細かくターゲティングできます。最先端の全自動洗濯機が10万で買える時代に誰が1,000万で洗濯板を買うでしょうか?という話です。

 

そして事実、冒頭で述べたようにテレビの視聴者は減りインターネット利用の時間シェアはモバイル中心に爆発的に増えています。それなら本当に、いったい誰がテレビ広告なんて買うのか、とマーケターでなくても思われるでしょう。そんななかで、先に述べたように我が国においてテレビ広告は依然インターネット広告の3倍以上の市場規模なのです。そして同じく上で述べたように、しばらくその関係は逆転しそうにありません。なぜこのようなことが起こっているのでしょうか。

 

欧米、特にアメリカに比べ広告主側のマーケターや広告代理店がデジタルを理解していないから。人的投資、システム投資など広告代理店のデジタル対応が大幅に遅れているから。というのが、インターネット広告擁護陣営の論調です。マーケティングにおけるアメリカのトレンドは、タイムマシーン的に2〜3年遅れで日本に入ってくるので、日本でもアメリカで進んでいるようなデジタル化の大きな波が早晩やってくる。それまでの時間の問題だ、というわけです。しかし、欧米でもテレビ広告への投資は下げ止まり、むしろインターネット広告とともに成長しています。すべての広告がインターネット広告に置き換わる、などということは数年単位では到底起こりそうにありません。なので、マーケターや代理店におけるデジタル化の遅れ、というのは問題の本質ではありません。

 

私はインターネット企業でサービス開発をしていたこともあり、インターネットを理解した企業側のマーケターだと思いますが、それでもマーケティングのデジタル化というのはなかなか思う通りには進みません。一番の原因は、はっきり言ってしまうと、テレビ広告が依然効果的なわけではなく、実はインターネット広告「も」あまり効果的ではないためなのです。少なくとも、物凄く効果があったケースとテレビにおける平均的な効果を比較しても、そこには最新型洗濯機と洗濯板ほどの差はありません。最近やっぱりテレビってだめだけど、(期待していろいろ試した)ネットも変わらないよね、というのが実は多くの広告主の本音なのではないでしょうか。

 

ダイレクトレスポンスと呼ばれる、ECなどで購買を促進する広告は、インターネット広告はうまくやればかなり効果がありますが、商品の認知や想起を創るブランディングとと呼ばれる領域、企業の広告販促費の大半を占めるこちらのエリアでは、ネット広告の効果は、よく言ってテレビ広告と大差はないです。繰り返しますが、決してテレビがよい訳ではありません。テレビもダメならネットもだめ、という状況です。ターゲティングをどれだけ科学的に精緻にしても、結局それだけでは人の心は動かせないのです。これは、同僚の話を聞くとアメリカでもイギリスでもそうだと実感しますし、今後どれだけテクノロジーが進んでも変わらないと思います。

 

こういうとコピーライターやクリエイティブディレクターなど、広告代理店のクリエイティブの人たちは大喜びしますが、だからといってクリエイティブが大事、ということを言いたいわけではありません。ただ単に、感動・爆笑・驚きなどとても大雑把に、かつ一時的に心を動かす(そしてアワードで賞を取る)ことだけを目的として、ブランドの課題を何ら解決しない広告クリエイティブが跋扈しているのは悪しき風潮です。「あるブランドを、洗練され創造的でありながら人に寄り添った人間味のあるブランドだと感じ、それを記憶に書き込み、商品が必要になったときに助成なしに想起してもらう」など、マーケターが必要とする心の動きは至極複雑です。そもそもそんな心の動きを人工的に作り出すことが可能なのでしょうか。

 

それはとてもとても困難で、絶望的なまでの時間と体験の集積が必要とされる問題です。ブランドの課題が単純な認知(しってるかしらないか)の問題だったり、知名度・安心感の問題に留まっていた数十年前までは、広告によるブランディングなどということも可能だったのかもしれません。しかし今や、ネット広告であれテレビ広告であれ、いかなる広告も高度に複雑化したブランディングの課題を解決できません。だからこそテレビ広告もきかなければ、ネット広告も同様にきかないのです。しかし、利益の〇〇%と慣例的に設定されているマーケティング予算を消化して自分の仕事を守るべく、マーケターは日々テレビにインターネットに広告予算を配分し続けるのです。テレビ広告への投資がどこの国でも一定のレベルで下げ止まるのはそういう訳です。どちらにせよ効果がないのであれば、そして他に選択肢がないのであれば、テレビにも一定程度予算の配分は続けるでしょう。つまり、テレビやネット云々ではなく、広告によるブランディングそのものが終焉しているのです。

 

そもそもブランディングというのは広告だけの話ではまったくなく、商品コンセプトやパッケージ、価格、販売チャネルを始めとしたいわゆるマーケティングの4P全てを総動員するべき活動ですが、そこ(マーケティング活動全体)にすら留まりません。対従業員のブランディング(インターナルブランディング)を通じて、すべてのステークホルダーの(顧客だけではなく)タッチポイントにおけるブランド体験を集積していく、という文脈においては人事や営業、IRの領域でもあり、そこで作られたブランド価値を資産ととらえるなら財務の話でもありえます。そうして創られたホリスティックでマッシブな体験の集積があってはじめて、人の心は動き書き換えられます。

 

このような意味でブランドを構築するには、つまりあらゆるタッチポイントで共通したブランド体験をものすごい量集積していくには、なかば強権的にすべての企業活動を統制する強烈なカリスマ的リーダーシップが必要です。アップル、アマゾン、テスラなど、今世紀になって強固なブランドを築いた企業の裏にはこの強烈なリーダーシップが共通しています。もう一つの方法は、消費者や従業員自らにブランド価値を共創・構築してもらうやり方です。レゴやグーグルが大きな例ですが、ここには小さな成功例がいくつもあるはずです。いずれにせよ、それらはもやは伝統的な意味における、広告マンの言うところのブランディングではありません。企業経営そのものです。その意味で、ブランディングの時代は終わった。終わったのはテレビではなく広告におけるブランディングそのものなのです。そんななかでマーケターの役割は何なのか?ということは、とても大きなテーマなので次のエントリーに譲ります。

 

 

 

ソーシャルメディアはshallow(薄っぺらい)か?

3〜4年前になると思いますが、Nicholas Carrという人が書いたThe Shallowsという本を、出張時に外国の本屋でよく見かけ、確かサンフランシスコで購入しました。一言でいうなら、インターネットは人間の思考を薄っぺらくしていく、ということを入念なリサーチで科学的に実証した本です。素晴らしい洞察に基づいたいい仕事で、海外では話題になっていましたが、未だに日本語訳はないようです。

 

"We want to be interrupted, because each interruption brings us a valuable piece of information"

「我々はむしろ邪魔(interrupt)されたがっている。なぜならばインターネットにおける『邪魔』は、同時に有益な情報の欠片でもあるからだ。」

 

その結果として、人間(の脳)はinterruptionがない状態、つまり集中状態を、ある意味で良くないものと認識するようになります。interruptionを歓迎するようになるのです。このことが人間の思考を浅くします。悪意のある言い方をすれば薄っぺらく。

 

ソーシャルメディアはまさにそれを象徴する存在です。タイムラインに次々と流れる情報、誰かが自分のポストをlikeしたよ、という通知、表示しただけで自動的に再生される動画、これらはすべて本来interruptionなはずですが、我々はむしろそれを歓迎しませんか?

 

アラブの春」はソーシャルメディアによってもたらされたといっても過言ではありませんが、同時にソーシャルメディアによって破壊され、現在「春」を経験した多くの国では革命以前より深い混沌が社会を支配しています。エジプトにおける主導者の一人、Wael Ghonimさんは、その状況に絶望しその後2年半の間沈黙を守り続けてきました。

 

www.ted.com

 

ここからは私の考えですが、ソーシャルメディアは、特定のメッセージを拡散すると同時に、人々の声を集約し遠心分離機のように一つにまとめあげてしまいます。1.受け手の思考の浅さと、2.ソーシャルメディアの情報拡散システム、3.発信者・媒介者の承認欲求がそれを助長します。

 

1.は上でお話したとおり。2.はlikeやshareに代表されるように、本来であれば共感度や共感するポイントに差があるべきいくつもの共感を、一つにまとめて「1M likes」などと定量化してしまうシステムを指摘しています。これはlikeに色をつけられる新しい機能でいくらか緩和するでしょうが、本質的には変わらないでしょう。そもそもが上記のような問題意識から生まれた機能と想像します。

 

3.ですが、ソーシャルメディアにおいては時にlikeされることが目的化し、解りやすく共感を集めやすい記事をshareしたりコメントをつけてポストする傾向があるように思われます。右翼・左翼という言葉を最近またよく聞くようになりましたが、中核派革マル派などの「派」の時代から、暴走族・たけのこ族など「族」の時代を経て、さらに渋谷「系」、〇〇「推し」と、グループが多様化し構成員の絆がゆるくなり相互の対立も緩和する一方だった時代の流れに大きく逆行する現象です。ここには3.のポイントが大きく関係していて、極端な思想に立脚したほうが共感を得られる投稿の予測がつきやすくなる、という真理が働きます。

 

これらのことが社会にもたらす帰結は、アラブの春で証明された通りです。深い思考と哲学に基づく個人のリーダーシップの欠如と、上下左右への大きく乱暴な振れです。ソーシャルメディアがもたらす利便性を享受しながら同時に、我々は深い思考を取り戻す必要がある、ということで、新年にあたり昔と同じくらい本を読む事と、クソ長い文章を書くべく今あえてブログを初めてみました。